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五島慶太

五島慶太

 大正2年 鉄道院に転属

この頃、全国的に私鉄鉄道の敷設が盛んに計画され、長野県でも飯山鉄道が豊野・飯山間敷設の認可申請を国に提出した。 この申請に陰で尽力したのが、五島慶太である。 昭和35年に「五島慶太翁碑」を飯山駅の前に建立し、その功績を称えた。

慶太は「総務課長心得」に就任したが、「心得」という字が気に喰わなかった。「心得」と書かれた稟議書が回ってくると「心得」の文字を筆で消して押印して上司に回していた。 なぜかとの局長や次官からの問いに、「私は本当の課長としての責任をとって本気で書類に判を押している。心得というような中途半端な無責任な字は消している。これは、私を侮辱したことである。」と答えたそうである。 それから2,3日後、慶太は正式な総務課長に任命された。


飯山駅前の碑
 大正9年 鉄道院を退官して武蔵電気鉄道株式会社常務に就任

五島慶太は「官吏というものは、人生のもっとも盛んな期間を役所のなかで一生懸命働いて、ようやく完成の域に達するころには、従来の仕事から離れてしまわなければならない。 まったく浮草のようなものである。

これに反して、実業界は自分の心に適した事業を起こし、これを育てあげ、年老いてその成果を楽しむことができる。」と考えて、実業界へ転身 したのである。

 大正11年 妻万千代死去

最愛の夫人は31歳の若さで幼子4人を残してスペインイン フルエンザにかかって早世した。慶太はその後結婚をしないで独身を通した。

慶太には4人の子供がいた。長男・昇は東急社長・日本商工会議所会頭などを歴任した。 長女・春子は曾弥達蔵氏の三男に嫁いだ。次女・光子は病気の為二十歳で早世した。 次男・進は東大を出て東急に入社したが、海軍に入り戦死した。

 大正11年 目黒蒲田電鉄専務に就任
 
 昭和9年 東京高速鉄道常務に就任
 
 昭和11年 東京横浜電鉄、目黒蒲田電鉄取締役社長に
 就任
 
 昭和14年 東横電鉄・目蒲電鉄を合併し、東京横浜電
 鉄になる
 
 昭和17年 小田急電鉄・京浜電鉄を合併して東京急行電
 鉄㈱と商号変更
 
 昭和19年 運輸通信大臣に就任 (東京急行電鉄社長を辞任)

戦争のさなか、日本の軍需生産は名古屋を中心に生産されていた。特に飛行機の大半は名古屋で製造されていた。 当時、名古屋駅を中心に工場に通う職工で、乗換駅の栄町は大渋滞になっていた。 通勤に時間がかかり、部品製造が納期に間に合わず飛行機の製造が出来なければ、戦争に負けるのは当然だった。

 「この戦争に勝つ要因は、この交通状態を改革するにある。」とまで言われていた。 渋滞緩和の為、工場の熱田・名古屋間に駅をつくるのが最善策だが、この工事は2年でできるかわからない大工事だった。 慶太はこの2年以上かかる工事をたった6ヶ月で仕上げたのである。五島慶太が大臣になりやり遂げた、大きな仕事のひとつである。

戦争も激しくなり、東京では食料品の入手が困難になった時、五島慶太の実家から学生だった又甥が青木村からお米を背負って行くと、長男の昇さんが「毎日イモばかり食べていたけれど、今夜は米のご飯が食べられる。」と喜んでいたという。

五島慶太は実業家ではあったが私財というほどの私財は無く、清廉であった。家では贅沢もせず過ごしていたようだ。 終戦後GHQ(国連最高司令官総司令部)により公職追放になった。

 昭和27年 東京急行電鉄取締会長に就任

五島慶太は次々と鉄道会社をM&Aなどで手中に収め、私鉄王国「大東急」を築いた。 沿線開発として百貨店を作り、学校への誘致をし、慶應義塾大学・武蔵工業大学・東京医科大学をはじめ多くの学校に土地を無償で提供した。

 事業の鬼として「強盗慶太」の異名をつけられたが、本人は「強盗」と悪口を言われても 一言も弁解もしないし、自分のした事で自慢らしい事も言わなかったそうだ。 五島慶太は仕事一途、真実一路の人であったのだ。

 昭和30年 五島育英会を設立 理事長に就任

五島慶太は昭和15年、東横学園理事長に就任した。 苦学をして高等師範を卒業し、又大学も卒業した五島慶太は、教育事業にも情熱をそそぎ、学校法人五島育英会を設立、初代の理事長に就任した。 大東急記念文庫もこの年に公開された。貴重な文化財を戦後の混乱による海外流出や分割販売による四散をくい止め古文化財を大切に保管した。

五島慶太の死後、彼の半生をかけて収集した貴重な美術品を、日本の社会・文化のために寄与し、昭和35年に五島美術館が開館した。 (戦争中は美術品の戦火による消失をおそれ、故郷青木村の小林家の土蔵に美術品を疎開させていた。)

 昭和31年 東急文化会館を設立 相談役に就任

東急文化会館に日本で初めてのプラネタリウム「天文博物館五島プラネタリウム」を設置した。東京の名所として、学生の修学旅行に組み込まれるほどの人気だった。

 昭和34年 逝去

糖尿病による動脈硬化と脳血栓のため8月14日に逝去。

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