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村松の宝篋印塔

 村松の宝篋印塔

宝篋印塔は鎌倉時代中期のはじめごろから造られるようになり、五輪塔とならんで中世において、わが国石造塔の二大主流となるほどに流行した。

もとはインドで内部に宝篋印陀羅尼経を納めたたことからその名ができたといわれる。はじめはお経を納めて拝んでいたが、しだいに高僧や土豪などの供養塔としてつくられるようになった。

 
村松の廃善福寺宝篋印塔 東塔

1365年(貞治4年、南北朝時代初期・貞治は北朝の年号)の造立で古塔の様式をそなえた名塔として、広く知られていた。

基壇は南側(黒色)と北側(赤色)の二石を合わせており、正面からは黒色一色に見える。
この正面に49文字の碑文が刻まれている。文字を記したものは全国的に稀で、相輪部分が失われているだけで、他は完全形で残っている。

「碑文が刻まれた石造宝篋印塔としては県内有数の古さで貴重」と注目されている。

これは善福寺に土地等を寄進した村松滕次郎の業績を記したもので、末尾に沙弥(出家した僧)朝阿と記してある。

 

村松の廃善福寺宝篋印塔 西塔

東塔と同様露盤まで完形でつくり方も東塔とよく似ているが、全体にややおとなしく少しやせ形である。記年銘がないので確かなことはわからないが、村松滕次郎と深いかかわりある者(たとえば妻または子供)の供養塔ではなかろうかといわれている。

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